漆に纏わる話 2010年版

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12月30日(木)31日(金)

今日からやっと休みになる。
月曜は10:20pm、火曜は9:56pmなど、先週から9時以降の帰宅が続いていた。
日曜も10時半頃の帰宅だったが、午後からの編集関係の作業の後の忘年会のため。
酒が飲める人と全く飲めない人とに極端に分かれていたが、余り関係なかった。
苦手なカラオケもあったが、中心がしっかりしていると、前を向いて生きられると感じられた。
いつもの通り、曖昧な表現をするだけだが、それで十分だと思う。
今朝は、昨夕からやっと取り掛かったのを郵便局まで持っていく。
同じようなことをしていたらしい車が次々にやって来ては去っていった。
叔母の所に寄り、話をしたりしていた。
土曜日に預かった尺八の合わせの修正も問題なくできていたようだ。
正得の屋号が載っているのを見て、名字にさんをつけただけの家の話とか。
江戸時代から名字があったのが母の里。
スケベ云々は止めてくれということもあるらしい。
懸け子に蚊帳布を貼ってから、午後は正月関係の買い物の付き合い。
日中なら運転はできる。(こんな表現を見て、それ以外の場合は、、、といろいろ想像できるなら、国語の読解力があるといえるなどと、いつもわざわざ曖昧表現をする人は思う)
紐胎杯の形(端)の作業など、少ししただけ。

年末に来て今年を振り返ると、トラぬたぬきのかわざんにょうというところか。
唯一の成果は、注ぎ口からの裏漏れについて考察できたことだろう。
中学生の夏休みの自由研究にはもってこいの課題だったかも。
乾漆誕生の理由といい、麻布の使用といい、長い歴史の中で抜け落ちていることが多々ある。
末梢を生きる「学者」には、仲間内の賞賛しかありえないだろう。

31日(金)今朝までに20センチぐらいの積雪があった。

楓の枝に薄く残る雪。
風の影響が、気化熱を奪い、低温の表情を見せたりしているのだろう。
片づけをしている時、26日(日)にcalendarを届けてくれたY君が、もう一つお椀がほしいといって来る。
1年前に頼まれたのをこの前渡したのだが、お母さんに取られてしまったとのこと。
端の外回りを浅くルーターで彫り、細いラミー紐を3周ほど巻き、補強。
高台の外回りには、太いラミー紐を巻き、補強。
内側に螺旋状にラミー紐を貼り、補強と模様を兼ねている。
注ぎ口の裏漏れにしても、世の誰一人関心を持っていないのと変わりない。
巫女がテクニックとして、サッと注ぎ、サッと注ぎ止める(従姉の話)のを唯一の解決法として済ませている。
芸術は科学ではないだろうが、再現できないものは理論でも科学でもありえない。
それぞれの限界を知るべきだろう。

12月18日(土)

たぶん初めて出席しただろう忘年会。
2次会は何回か行ったことがある店。
毎日2時間ぐらいずつ続けられてどうにか仕上げられるのにそうできない状態だと話す。
数年前一人になり、帰っても気力も無く、そのまま寝たりしていたが、展覧会があるので何とか制作ができたと話してもらう。
一途に自分の感動など、表現したいことを溜めていくなど。
1次会で最年長の方が、ほんの少しの段差で転んだという話をされていたのを踏まえて、転んでも立ち上がる、前向きに、、、
そんな話をしている(聞いている)と、横から何やら言葉尻を捕らえ、話が横に飛んでいった。
70代半ばの方の言葉に皆が涙を流すほど笑ってしまったり。
列車の時刻が近づき、店を出ることに。
何か飲み足りないので、帰宅後また飲む。
BSで鳥獣戯画についての番組を放送していた。
ウサギの骨格をきちんと踏まえている。
毛がふさふさしている所を数本の線で描いている。
線の太い細い、目の向きで笑いになったり、怒りなどになったり。
京都の葵祭りの姿と同じ姿や、出土品が絵の中の籠と同じことに気づいたり、、、
国宝とホノルル写本の比較、国宝の下のほうにある規則的な修復跡らしいものに気づき、そこから二つの巻物があったことを示したり、、、
高山寺が焼き討ちにあった歴史が関係しているようだった。

12月12日(日)

平日は帰宅が遅く、その上、休日にはいろいろな行事が続く。
金曜は会社の忘年会。
今日は、地元の行事があったが、前から予定が決まっていた撮影の方に行く。
二つ重なると、二回出かけることはなくなるので、時間的に助かるとは言える。
午後約5時間かかって、予定人数の分の撮影が終わる。
中央展は一応図録に載っているし、自分の、初めての蓋と身を合わせた作品を持っていき、記録として残るようにと考えた。。
自分の所有ではないので借り、帰宅後、銘を入れる。

月曜にパソコンをして、火曜にメールが来ていると言われ、見た以外、土曜までパソコンに触っていなかった。
パスワードが必要なのが二つ、何度パスワードを入れ直しても、違うという反応をする。

12月6日(月)

先週もほとんど漆ができない感じで過ぎた。
金曜夜飲むという習慣をやめ、何とか時間を確保。
土曜日は、美連展の作品を受け取りに行ったり、擦り減った自転車のタイヤの皮を探してみたり。
昨日は、朝、ガチャガチャになっていた机の引き出しを10年ぶりぐらいに少し片付けたり。
今日は、寺への振込みに行くも、通帳がいるとかでまた家に戻ったり。
紐胎杯の作業を進めようとしたら、二日たっているのに乾き不十分な感じ。
下にテーブルがあるつもりで手を離したら、落下して持ち手が取れてしまったカップを直そうとしたり。
漆継ぎも余り上手くいかず、熱湯の中に置けば、漆の熱硬化ができるのではないかとやってみたり。
ビニール袋で包み、湯と接しないようにしては見たが、空気抜きように上は縛らなかった。
カップが浮かないように内に水を入れていたが、恐れていたとおり、漆継ぎのところにそういう水分が回ってしまっていた。
一応繋がっていた部分も分離してしまった。
結局、また漆の粘りが出たタイミングで貼り合わせる事になった。
昨日の新聞記事にこんなのがあった。
そういう方法を試しているということはかなり以前からは知っていた。
サランラップの芯から覗いたような視野が残るらしいから、関係ないとは言えるかも。

11月28日(日)

平日はほとんど漆ができない状態が続いている。
昨日は、久し振りに顔を合わせ、椀をまたあげることにした。
午後からは、木曽義仲に関する講演会を聞きに行ってほしいというので、公民館へ行く。
中学の音楽の先生だったそうだが、今は小矢部を元気にするための活動をいろいろしているようだ。
その一つとして、木曽義仲の研究をしているらしい。
大河ドラマに取り上げて欲しいということも兼ねているようだ。
こちらとしては、倶利伽羅の火牛の計のことぐらいしか知らない(覚えていない)。
いろいろ入り組んだ源氏と平氏、天皇家と藤原家を富山弁で解説された。
義仲には権力欲や略奪欲が無かったという立場からの話だった。
平家の落人というのは、元々寄せ集めの軍だから、いつでも逃げ出したり、裏切ったりする中から辺鄙な所に隠れた人のことだと言っていた。
常々、貴族が落人になって、山奥なんかで生活できるわけが無いと思っていたので、なるほどと思った。

今日は、懸け子を、石膏雌型から作った素地用に作ることにして、石膏に作図しなおし、削る。
前のとき(石膏雄型から作った素地用に)どう彫り込んだ記憶が無い。
懸かりとなる部分の位置をまず垂直方向に彫り込み、そこと底となる間を丸ノミで削る(腰を作る)。
後は見た目の狂いを削って直したが、底となる面が裏側に膨らむようになっているのに気づき、砥石の修正用の荒砥で石膏を研ぎこむ。
研ぎ切れなかったが、後は雌型で修正することにして、石膏雌型取りをする。
注文の方も、なかなか時間が取れない。

11月23日(火)

エルフ富山のギャラリーでの第23回アミカル展。
二日目の20日(土)に列車で富山駅へ行く。
県民会館前で、エッチュウ・アートフェスタに寄ることにした。
サッと流れるように見ていく。
展覧会の実行委員長の萩中先生がおいで、知事が午後2時過ぎにアミカル展へおい出るとの話。
地下を暫く堀田先生と一緒に見る。
久し振りの好天の感じになり、城址公園の横を通り、朝日印刷のビルを見て、総曲輪へ。
アーケード街を中央通に向かい、エルフ富山へ。
片口の注ぎ口からの裏漏れを野村さんに説明したり、、、
入場者は多くも無く、少なくも無くという感じ。
2時40分頃知事がおいで、島さんの作品について解説を求めたり、、、
集合写真を撮っているとき、東京から到着され、また撮り直したり、、、
夕方は自遊館でオープニングセレモニー。
柳田先生が北海道に移住されたので、90代の方がいなくなった。
帰りは上手く列車に乗れた。
21日(日)は、午前中は長岡神社の飾りつけ、雪吊り。
午後からまた富山に行く。
古田先生に漆の話をしたり、片口の裏漏れをなくした話など、、、パテントですね、、、
紐胎盃を茶巾立てに使う、、、
夕食を共にするということにもなる。
お世話になりっぱなしという感じで、列車で帰る。
今日は、午前中、美連展の作品を預けに砺波へ。
その後、ガソリンを給油し、クロネコで送る。一つは着払い。
午後は、長岡神社の新嘗祭・感謝祭。
班長であるとともに客でもあるという立場だった。
帰宅後、戻ってきた乾漆片口の裏漏れの写真を酔いながら撮る。

水の止めたタイミングと少しずれたが、ここで止まってくれ、裏には回らなかった。

11月14日(日)・15日(月)

片口の注ぎ口からの水の裏漏れでずっと苦労している。
先週の麻縄による補強は、素地との間に麻糸を何本か渡し、縄が剥がれてこないようにしておいた。
下地で口付近の形を作り直した。
口に内側を研いでも、水はピタリと止まった。
裏側を研ぐと、裏へ水が回るようになり、端を研いでも水が回るだけ。
何とか水の流れを止めて、横から水の表面張力の形を見ると、ダラーッとしてだらしない。
裏側が上向きになるように削り直しても、多少改善が見られるだけ。
また下地を付ければ、口のところで水はピタリと止まるようになる。
結局、研ぐことにより滑らかな面になり、水が流れやすくなると考えるほか無い。
昨日夕、試しに裏側に針で細い溝をつけてみた。

3.5倍のルーペで拡大し、ガタガタになったが、何とか溝をつける。
水を流してみると、ピタリと止まるようになった。
この付近に指で黒漆を薄く塗っておく。
昨晩、外側を研ぎ、少し埋まった感じなので、またルーペを掛けて、溝を引き直す。
前から見える端の下部分にも細い溝を何本か針で彫る。
外側を日本産黒漆で上塗り。
粘りで漆が厚塗りになってしまったので、刷毛で少し取り除き、均し直したり、、、
今朝はまだ乾いていなかったが、無理に乾かせばヤケてしまうと思い、戸を閉め切るだけにした。
夕に見ると艶が落ち乾いていたが、まだ無理をするべきではない。
塗ることで、溝の効果がどうなったかはまだ調べていない。

注ぎ口に関して大体分かったことをまとめてみる。
1.口の幅は、水の表面張力の形が力強いキノコ形で最大径の5ミリほどにする。
2.口の先は上から見ても半円形の、キノコ形に対応させる方が良い様だ。
3.端を作ることで、角は2つできるようにし、流れを止める堰のような働きを持たせた方がよい。
緩いカーブを角につけると水が流れやすくなるので、逆に角を残した方がよい。
4.水の流れは、滑らかな面の方がよいので、それを妨げるため、細い溝を何本か並べて彫る
模様とするべきなので、彫る時は慎重にする必要があるだろう。
5.裏側は、水面(水平線)より上向きに本体側(水を入れておく器部分)戻るような形にし、逆流を防ぐようにする。
(筒など円柱形を利用した注ぎ口は、本体側を大きく傾けることができるので、逆流は起こりにくいとはいえるが、ゆっくりと注ぎやめると、ほとんど逆流し、裏漏れする)

2週間前は、高速バスで上京。
1週間前は、栄養を摂るようにと米などを送ったり、、、
昨日は床屋に行った他は、主に片口のことをしていた。
今日は、午前中は紐胎杯の空研ぎ。
昼前後は県の駅伝なので、午後から富山へ行く。
余り駐車場のことは分からないので、ウロウロして、結局、市営の駐車場に入る。
大和へ行き、漆器や木の器が並んでいるのが目に入り、見ていると、目的の場所だったと分かる。
人柄を示すような優しい感じの品々だった。
大蔵さんという名前は知っていたが、初めてお会いすることになったので、「案内を頂いた砂田です」と声を掛ける。
大北海道展に寄ると、すごい混雑だった。
店の人が値段は高いですよと、自信を持って言っていたそうだ。
自分もそう言えるような作り手にならないといけないとは思う。

15日(月)片口の外側の上塗り状態で水を注ぎ、それを止めてみた。
かなりの量の水を入れ、本体(器)側と繋がった状態で水があっても、ピタリと止まってくれた。
口の端の所は、朱塗りにすることにし、そこの線は、また針で彫り直した。
静岡炭で研いだ(一部、ペーパー研ぎ)後、部屋も朱漆も暖房で暖めて上塗り。
漆は温まると柔らかく塗りやすくなるし、ゴミはいつものように掃除機でノズルの先に何もつけないで、強力な吸引力で吸い取るだけ。
その前に、布で水気やゴミがくっついているのを取り除き、後はブラシで食いついているゴミを剥がれるようにはしているが、、、つまり、塗る前の、漆分(粘り気)を極僅かに残した刷毛などによるゴミ取りはしていない。
部屋の掃除も、少し水拭きする程度。
注ぎ口の裏側の針による彫り跡は、見た目にきれいでないので、沈朱のようにしてみたが、、、?

11月7日(日)

乾漆片口の注ぎ口からの裏漏れが直りきらない。
今朝また裏側をノミで削っていると、欠けてしまった。

麻縄を口の前側に貼ることにし、木の粉を混ぜた糊漆で貼り付け、洗濯バサミで固定しておく。
水の流れを止めるためには、水の表面張力がキノコ形になる最大径(約5mmほど)が実用的だから、それぐらいの通り道にする。
箆先を刃物のようにしても、流れている水を止めても、裏側に回ってしまった。
端の両側(水の流れる通路との境・裏側との境)に角を作れば、流れを止めたとしても、裏側には回り難い。
水の面(水平線)より、裏側が上向きにし、多少裏に水が回っても、そこで止まるようにしておく。
理屈では分かってきたが、なかなか上手くできないまま。

10月30日(土)

乾漆片口の注ぎ口からの裏漏れでいろいろ考えることが多い。
裏側が上方向に反りあがっている限り、多少の裏漏れは使用上問題は無い。
急須など、口がパイプというか筒状なら、水平面とは無関係に裏側を上方向に反りあがっているようにして使うことが普通のことになる。
つまり、注ぎ口が下側に位置する状態で使用することになるから、裏漏れは問題にならない。
しかし別の見方をすれば、世の中のほとんどの注ぎ口は裏漏れだらけといえる。
水平線上の水の流れに注目する限り、口の端で水が止まらない限り、表面張力の広がりで裏側に水が回ってしまう。
正倉院の漆胡瓶の口を写真で見る限り、スプーンのような下側の形だから、物理的に、最後の一滴という見方をすれば、裏漏れをせざるを得ない。
乾漆片口で上手く研ぎあげた状態のとき、水は口の端でピタリと止まる。
もっと良くしようと研ぎ進めると、逆に水はだらだらと流れるようになり、裏漏れになる。
水平面の最後の角、つまり口の端で下の面との境が刃物のようになっているとき、水はピタリと止まるようである。
箆の先を刃物のようにするのと同じ感じである。
今日も、ピタリと止まった状態を少し研ぎ、だらだらと流れるようになってしまった。
刻苧で造形した口が壊れたことも原因の一つだろう。
ラミー紐の細いので、補強と、一度に厚みを作る作業をしてみる。

一週間前に聞いたことで更新する気が無くなっていたとはいえる。
今日は、銀行でおろした後、高速バスの予約をしに行く。
JRに比べると格安とはいえるし、移動時間の合計ではそんなに変わらない。
夜行は厳しいが、日中は車に乗せてもらうのとは変わらない、時間が勿体無いだけだ。
その後、金沢に向かい、荒川さんの個展。
今年認定になった人間国宝の方がおいでた(福野高校卒)。
県立美術館へ町中の道を通って行く。
破綻が無いという必要条件が目立った。
そんな中で坂下先生のは、型に馴染ませるために紐で引っ張るための穴を装飾に回した感じがした。
高野さんで値段的に、麻布を主に買った。
帰宅後、昼食が午後3時過ぎ、4時過ぎからやっと漆の作業。

10月17日(日)

朝早めに漆の作業を始めると、何とか長めにすることができる。
つまり雑用を済ませてからしようとすると、いつの間にか午後になってしまう。
今日の最低限の予定だった片口の内側から外脇までの中塗りをする。
口の裏の刻苧部分には、そのまま黒漆を刷り込むように塗った。
椀の中塗りも2個目をしている途中、来客。塗り終わるのを待ってもらう。
話をしたり、インターネットで見ていた紐胎杯を実際に見てみたいとのこと。
熱湯を注いでみて、どの程度熱が伝わるかを感じてもらったり、、、
水分を通してみる貝の輝きとか、朱の色を見てもらったり、、、
少し大きめのほうが良いとのことで、10数個を作る型が一つしかないし、すぐ型から抜ける訳でもない。
石膏で型をいくつか作り、平行して作るしかないと考え、型取りに取り掛かる。
半分を厚紙で囲み、石膏を流し込んだが、囲みが広すぎ、4回に分けて流してやっと片側ができる。
石膏が固まる間に、昨日の会合で言っていた撮影場所を探しに出かける。
途中、以前あった建物が更地になっているところもあった。
渡されていた地図をしっかり見ていなかった所為もあり、下道に下りる場所を間違えたり、、、
分かりにくいところではあったが、2ヵ月後に行くことになる。
帰宅後、石膏雌型の反対側を作る。少ない量で、2回掛けるだけでできた。
まだ熱い内に分離すると、ズレ防止に穴を開けていたところに合うでっぱりが折れたところもあった。
その上、中の型がずれていて、大きくなってしまった。
もう一度、中の型をキチンを押えてから、作り直す。
中に入れた型を取り出し、紐胎杯の素地を一つ作る。
締めたりして、形があまり狂わないように注意して作ると、1時間半ほどかかる。
石膏雌型を合わせ、ゴムひもで縛り、中に石膏を流しこむ。
持ち手として、サランラップの紙の芯を中に突っ込んでおく。
型抜きは明日することにする。

10月16日(土)

9月25日(土)に書いた乾漆片口の裏漏れ、塗りを少し入れると、また発生。
口の端の裏を上向きに削れば無くなる筈だと、、、
逆に裏に回る水が増え、裏漏れがひどくなった。
見た目に2ミリほどで耐えている表面張力が、逆円的に削った裏側まで続き、流れ出した。
刻苧で水平線より上側に裏がなるように作り直す。
口の端幅をできるだけ狭くする、裏側の上に向かう線が直線に近いようにする、、、
今日の段階では、裏漏れは無くなったが、塗りを入れるとまた狂うことがある。
写真を撮ったが、ピンボケ。

10月10日(日)

刻苧綿はムラなくできていて、都合は良いが、糊漆分が強いので、乾くのに時間がかかる。

研修所のVHSテープを見ていると、講演で「漆の断紋はどう現れるか」との質問。
昼食時間なのに延長して、解説が始まり、木目に垂直方向に断紋が現れる。
その理由は、木は水を吸うと伸び、乾くと縮む…という所で録画が切れていた。
一週間ほど考えていたが、よく分からない。
昨朝は不眠状態のまま、いろいろ考えてみた。
木は乾くと、何故、中心方向に向けて亀裂が走るのか?
板は水分を吸うと、木の外側で成長した側に向けて反るのは何故か?
木の内側とか北側(で成長した側)とかは、細胞がより小さいのかもしれない。
細胞に弾力性があり、余計に水を吸うことができるのか、内側がより乾いていて余計に水を吸うことができるのか(外側は余計に水分が残っていてあまり吸うことができないのか)?
板の内側から押す力の方が大きいから、板の外側が反ると考えるしかないのでは?
水分が抜けるとき(乾くとき)、同じ水分量が抜けていくとすると、外側の水分量が余計残ることになるから、相対的に力が強くなり、内側に反ることになるのか?
そう考えると、外側に亀裂が走ることの説明ができないことになる。
内側の水分が余計なくなることで、縮む力が強くなり、その力で外側が破れる事が起こりうるのではないか?
仮説は、動きを左右するのは内側ではなかろうかということである。
木地(例えば椀)が割れるのは、上から見ると年輪に垂直方向、横から見ると縦方向(の弱いところ)といえる。

漆が塗ってあれば、割れは木地とともに割れる。外側がまず割れ始めるはず。
長い年月で木地が乾くことで、内側が圧迫される(縮む)ことになるが、その力はどう抜けていくか。
木地は細胞が縮むこと(弾力性がある)になろうが、漆膜・漆下地は固いので、横方向からの圧力にギザギザの断紋(横方向の割れ)となることで、圧迫を逃すしかないのでは?
漆の木地の場合は、表・裏とも同じ感じで乾いてから作られるから、木の収縮と漆の固さの差で、縮む圧力を受けるといえるのかもしれない。
木の収縮は、木目方向がほとんどだから、木目に垂直方向に断紋がはいる。

お椀に熱湯を入れた場合の影響に関しては、どう言えるのだろうか?
木地の中に残る空気は膨張する。
木地はどう変形するのか?
兎に角、空気の膨張で、漆膜・下地は内側から圧力を受けることになるから、今回は伸びる方向になる。
引っ張られることになるから、割れることが起こりうることになる。
電子レンジに入れた場合は、中の空気が爆発し、漆膜・下地は破れてしまう。

水曜日の7:40pmころ帰宅中の車の中で聞いていたNHKラジオでノーベル化学賞のことを言っていた。
新幹線工事中の下で信号待ちで、音声が暫く聞こえなかったりもした。
日本人が二人で、一人は北海道大学の名誉教授と言っていた。
9時前の手話ニュースを見たかどうか記憶がはっきりしないが、9時からのテレビニュースは見た。
工学部の応用化学科の鈴木章名誉教授で、解説ではC-とC-という本来反発しあうものをPdを触媒にし、それにホウ素(B)を加えて安定的に結びつけることができるようにしたらしい。
他の人は、亜鉛・ハロゲンを加える方法を完成したらしい。
触媒が何故自身が化学変化せずに、反応時間を変えられるかということを鍵と鍵穴の関係で説明したらしいことで、帝国学士院賞・恩賜賞を受けた方が40年ほど前に学長だった。
触媒に関係がある大学というのは単なるこじつけか?
今日の午前中は、六角形の周囲に貝の線を貼り、雪の結晶のつもりにし、"Boys , be ambitious"という文字と亀の甲を二つ並べBでつなぐデザインをCADで作図してみたが、自分の蒔絵力ではできそうにないという結論になった。
1辺10センチの皿で、貝は1周で60センチ分いるし、それを3周すれば、180センチ近く必要になるが、貝なんでそんなに沢山持っていない。
それ以外は、文字は筆記体にするつもりでいたが、そう困難ではないだろうとは思う。
beは、Bの音で代用するとか、、、
アイディア倒れで終わるだろう。

10月2日(土)

この前の水曜日に、くん炭粉を作ったり、刻苧綿を作り始めたりした。
くん炭粉の方は、乾きは悪いが、削ったりするのは便利だとは聞いていた。
酸性土を中和するとあるから、アルカリ性なのだろう。
糊漆と練り合わせたが、他の地の粉と違い、乾きは話どおり悪い。
良し悪しは今のところ分からない。
刻苧綿の作り方は、坂sita先生にいろいろ教えてもらったが、その都度少しずつ変わっていた。
麻布をぐるぐる巻いて鉛筆のようにして、刃物で細かく切り、ミキサーにかける。
いろいろ工夫されているのをその都度話されたのだろう。
最後は、麻布片を水とともにミキサーにかけ、新聞紙の上で乾かす。
それをまたミキサーにかけて綿を作る、というのになり、各地で教えておられたようだ。
短大での講習で聞いてはいたが、今回、初めてやってみた(今もっているのが、無くなりそうなので)。
自分の場合は、ミルサーだが、刃の切れが悪くなっているのか、麻布片だけでは、上手く切り刻んでくれなかった。
水を入れ、一緒にミルサーにかけると細かく砕いてくれ、それを新聞紙の上において乾かした。
それをミルサーに入れて回転させると、写真の右のように綿になった。
今まで使っていたのより、繊維の雰囲気が消え、綿的には良いが、麻的にはどうか?

9月26日(日)

朝から晴れ渡り、寒い感じがした昨日よりは、風が弱い所為もあり、暖かい感じがした。
熱湯注ぎ3回をして、完成した紐胎杯を桐箱に入れる。
今作業している品の空研ぎなどを少しする。
午後から、招待券などを送ってもらっていたので、出かける。
義仲茶会の方は、駐車場が満車だったので、道の駅に行く。
陶芸展と古物展をやっているだけの感じで、おかしいなと、、、
配置図を見て、建物内のホールで展示しているのだと分かる。
酒Iさんが居られ、お礼を言う。
細いジャコメッティのような武士が山や谷を思わせるところどころにいる作品。
白を生かすような絵。
力強い墨跡など。
また埴生に戻り、茶会に行く。
椅子席に座ってお茶を頂くだけかと思っていったのだが、茶席に並ぶのだった。
次の茶会を待つのに1番だったので、正客の席になってしまう。
扇子も懐紙も持っていないと言い、以前テレビで見た記憶を頼りに、何とか茶を頂く。
漆をしながら、茶道を知らないのはいけないとは思うが、作品作りの時間さえない。
津沢の書展をみて、帰宅。

9月25日(土)

今日午後から、新しいアンテナ工事においでた。
金沢の北陸朝日を受信できるように方向を測ってもらう。
KNBを犠牲にするかもという話だったが、寒い風が吹いているとはいえ、好天の所為か、きれいに映った。

左の新しい方は、金沢市の方向を向いている。
今までのUHFのは、医王山のほうを向いている。

木曜日、新しいテレビを買い、VHSテープを今後も保存できるようにとBDにコピーできるらしいので、やってみる。。
前のテレビの衛星受信に使っていたビデオを接続してみると、VHSテープが映った。
支部展の賞金で買ったのを最初にコピー(麻布は薄い1枚、厚い6枚、薄い1枚と解説で言っていた)。
次に縄文関係のをとやってみたが、プロテクトがかかっているとの表示。
研修所でコピーしてきていたのを越hasiさんがコピーしてくれくれていたのもコピーする。
白ボケしてはっきり見えないのもあったが、多少劣化しているだけのもあった。
漆刷毛の製作のも3つあり、前に見ているはずなのに、初めてのような気がした。
自分とは別世界と感じていたのかもしれない。
刷毛は使うにしても、泉さんのは別世界で、手にするなんて思いもしない頃のことなので記憶に残っていないのだろう。
古いテープを見直す時間ももったいない気がすることも本当のところだが、記憶に残っていないとしても、何かがあるかもしれないともいえる。

今日、9月に入って始めて酒を飲んでみた。
午前に行った皮膚科で、何も治療法がない感じだったので、飲んでみた。
帯状疱疹の痕が消えないで残るという意味に聞こえた。
痒みがやっと弱まり、何とか眠ることが出来るようにはなった。
力を入れる感じのときは、まだ痛みが走る。
帰宅後、入院前より腰が伸びた感じになった母のところへ行ったり、修理が終わった縄胎杯を従姉(叔母)のところへ届けたり、、、
満州でしていたことを仕返しされている出来事を聞くと、現実的には「加害者:被害者」という形をとっても、立場が変われば、人間とか国家とかの本性は、逆の形で現れると思う。
被害者面をすれば何でも許されるかのようなクニは中東にもある。
宗旨を変え、「絶対神」を信奉するということ自体、相対的に過ぎないことを示している。
「絶対」という、それに反することを全否定する立場は、暴力以外では存立し得ない。
「加害・被害」という発想では、人は救われない。
どうすればよいか分からないので何も言えないし、「国益、国益」というらしい国際関係にもオカシイと感じるだけで、何をすればよいか分からない。
こんなことだから、漆の仕事を売り込むことも出来ないのだろう。

乾漆片口をまさに遅々という感じで作っているが、注ぎ口からの裏漏れがないか、注意している。
木曜に紐胎杯に熱湯を注ぐことを2回したが、冷めてから、片口に入れて裏漏れを調べるために水を移す。
前になかったはずなのに、裏漏れが、ゆっくり注ぐときに、していた。
急須を見ると、水平線より少し鋭角的に上に裏側が上がっている。
口の端も、凸形になっていた。
問題は、水分の表面張力であることは明らかだ。
液体の表面張力が、粘度に依存するのかどうなのか?
粘度が何に依存するのか?
水に関する表面張力について、ある半径が限界なのかどうか?
表面張力が破れたとき、裏漏れになりにくいのは、裏が上向きのときとは言える。
表面張力を支える水は、凸面の方が量的に少なくてすむのでは?
そのように削ったりしてみると、今のところ裏漏れはなくなった。

注ぎ口の下、僅かに水の流れる水平線より、上向きになるように削った。

9月20日(月)

届け物をした後、紐胎杯の裏に字を書く。
法事向けなので、朱が暗い方がよいと考え、5年ほど前に練った黒田朱を使うことにした。
分離している漆は、不乾漆の桶に移し、いつも使っている透き漆を混ぜる。
粉末の樟脳を混ぜて、粘りを弱くする。
銘は入れず、年号と家の名にした。
午後から、BSのケーブルなどの工事をしてもらうと高つくと思い、自分でしようかと考えた。
まず庄川美術館の木器展へ行く。
繊細な技法の作品や使いやすい感じの器。
指物、刳り物、挽き物を一人でこなす。
百萬塔の再現をするため、轆轤の回転は1分に500回ほどに落としてしたそうだ。
昔は回転が往復するので、よほど切れる鋼(砂鉄から)を使っていたのでは、とのこと。
カンナというかノミというか忘れたが、3種類を使いこなしてやってみたそうだ。
上の小さい塔のほうは、広葉樹のうちの散孔材、硬めの桜か楓を使うそうだ。
それをはめる下の塔は、円錐形の下の台形の感じに削ってから、定規で確かめながら屋根を作る。
屋根の上の外付近は少し凹み気味にしてあるとか、削った筋が残っているとか、説明を聞かないと気づかないことばかりだった。
ドイツの弓の弦のようなのを利用した轆轤は、実際のを見てよく分かるようになったそうだ。
ヨーロッパは椅子の足など長いものを削りだすので、両端に支えがあるそうだ。
日本は、椀などのように片側だけを打ち込んでずれないようにしている。
上の部分を差し込む穴も、ドリルではなく、スプーン上のカンナ(ノミ)であけたそうだ。
帰り道、電機店により、アンテナのケーブルなどを見る。
解説のパネルなどを見て、中継できる器具と10メートルの栓つきのケーブルを買う。
スタンドで給油してから、帰宅し、床下にもぐる。
上手くいかず、畳を捲くると、穴があり、そこを通す。
廊下下を直角三角形の斜辺のように通すつもりが、隙間がなく、垂直の角を曲がるように線を引くしかなく、ケーブルの長さが足りなくなりそう、、、
また穴を通して床上に出た後は、床の上を這わせることで、何とかテレビまで届く。
その先にテレビに差し込む何とか栓をつけるのだが、説明を読んでもよく分からず、何度もやり直す。
説明の意味が理解でき、何とかつけることが出来、BSも受信できるようになった。
前のテレビでは、アナログのBSだけだったので、受信料をかなり捨てていたことになる。

9月18日(土)19日(日)

体力的に無理をしないということを、漆をしないという形にせざるを得ない(ばかばかしさ)。
外見的には帯状疱疹はかなり薄くなってはきているが、寝ているときの痒み、立っているときの痛みは治らない。
班内に市報などを配り、皮膚科へ行く。
すぐ終わったので、電器店へ行く。
帰宅後、懸け子を天日の下に置く。
平日と休日の体の使い方(消耗)が全く違うから、疲れが抜けていかない。
昼寝と言うか、寝転び1時間以上して、やっと起き上がる。
紐胎杯の内側を細長い砥石で研ぎ、上塗りにかかる。
貝の粒が粗すぎて、とてもチューリップには見えないが、そのつもりのところは、塗った後、刷毛で浚えておく。
ゴミではなく、貝が蒔いてあるのが少しでも分かるように、との思いで。
毎日漆の作業が出来る立場なら、時間はいくらでもあるだろうが、今は週に3,4日程度。
乾漆の方はほとんど進まないし、原型を作るということは全く出来ない。
(9.19)早くテレビのアンテナ工事をしたいという話だったので、デジタルテレビを買いに出かける。
安くなるのを待っていたが、今買うとしても、数ヵ月後に更に安くなる可能性があるのは避けたい。
LEDなど星5つのにするとして、録画機能がついているのにするか、、、
迷いに迷った後、亀・BDにする。
今までの場所ならBSデジタルの受信が可能になったが、今度の設置場所ではパソコンのテレビと同じ地デジのみ。
歩くのも億劫なままなので、説明書を読みながら、陸上を見ていたり、、、
漆の方は、夕方から少ししただけ。
新しい試みは出てこないまま。

9月11日(土)

休日はいつの間にか過ぎていく。
判子を押してもらう必要があったので、早めに班内を回る。
寝ているときは痒み、歩くときは痛みに悩まされ続けているので、医者へ行く。
疲れが抜けきらない感じは同じなので、自転車で行く気持ちには全くならない。
一週間前はどうなることかと思って診ていたそうだが、順調に回復に向かっているようだ。
2回連続支払いがひどかったので、今回もそうかと1万円札を用意していた。
数百円で済んだので助かった。
カーマに寄り、筆ペンなどを買う。
帰宅後、裏底の水平研ぎや紐胎の外側の艶消し。
午後は美術館での会合。
平日に予定が続く会なので、どうすればよいかわからない。
若い者にも仕事がないから、こちらに漆の仕事がなくて当たり前?
帰り、少し漆の話が出来て、久し振りに楽しかった。
帰宅後測ると自分の箆の最大幅は、10.5センチだった。
100満ボルトで、またテレビを少し見てくる。
パソコンのはデジタル(アナログもだが)だが、何せ遅い。
紐胎の外側の艶消しの残りをしてから、麻布貼りをする。
麻布6枚、布目摺りをしてあったのを、今朝、空研ぎ。
医者に行っている間、車の中で熱処理。
帰宅後、天日干し。
美術館の駐車場で車の中に置き、天日に当たるようにしておく。
夜、目が細かい麻布貼り7枚目。
箆で糊漆を渡し、素地側に吸い込まれるのを待って、また糊漆を渡し、均す。
麻布を置き、箆で中央から押えていく。
布が糊漆に埋まらないところだけ、少し糊漆を箆で補給する。
浅い盆なので、切れ目をいれずに貼る。
仕上げを失敗した作品の懸け子になる予定のものの麻布貼りがやっと終了。


という字から寸を除いた形は、糸車を表すらしい。
何日か前、読売に載っていた記事。寸は手。
という字には、右肩に点がつくが、それは甫という字が元の字だった所為らしい。
畑とか田圃が広いという意味があるらしい。
ともに下のほうを少し省略し、同じ形になり、点がつくかどうかが違いとして残っているようだ。
糸車とは関係なく、音を借りたような説明も漢和辞典にはあるが、傳・恵の旧字など、点がつかない。

9月5日(日)

猛暑続きと外出機会というか行事や会合がかなりあった日々。
週4日程度とはいえ、8時間労働にすれば5日以上にはなる。
水分の補給は十分していても、帰宅後もひたすら水分を求める。
身体がきついとは思っても、翌日持つだろう程度は、漆の作業を続けていた。
出品に関しては、翌日持つはずがないので、まともな修正をするという意味で、時間がなかった。
例年朝買いに行く新聞も、全くそういう気にならなかった。
土曜日には砺波支社ギャラリーへ。
上に伸びる感じのなか、根のあたりから波状に葉が横に出ている、自分としては百合と感じたのが良かった。
29日には、昨年からコース変更になった北海道マラソンをテレビで見ていた。
40年ほど前とすっかり印象が変わり、建物ばかりが目立つようになった感じ。
中央ローンや南門などは何となく同じようなふうに見えた。
出ているはずの2人は映らなかった。
インターネットで見ると暑さに負けたような、、、
翌月曜に右足に少しぽつぽつが見えたが、紐胎杯を塗っていて落としたのでカブレたのか?と
火曜には太股全体にぽつぽつが広がる。
水曜に、これは落下した金属被塗装物を拾い、ポケット入れたのだが、それに残る薬品が肌を冒したのか?と思いつく。
木・金と、落下物をビニール袋に入れるようにしたら、進行が止まったような?
金曜夕には、歩くのさえつらい感じにはなったが、単にサボりたい気持ちでは?と
13時間以上会社内で過ごし、結局、水・木・金と3日続けて、そのまま寝た(漆をしなかった)。
痒みに耐えるのは、漆カブレなら一晩傷をつけないよう掻かないで過ごせば何とかなると知っているから何とかできないことはないが、不眠状態が続く。
普段の不眠症気味でさえ、疲れが足りないからだと言われることもある、、、
休みになったので、土曜日に痛む足で皮膚科へ行く。
若い頃、背中に出来たデキモノを切ってもらった事があるところ。
一目診て、何時頃からなったのか、なぜすぐ来なかったのか、、、
もう少し遅かったら、入院して点滴となったそうだ。
子供の頃水疱瘡にならなかった者が、疲れなどで免疫力が低下したとき、残っているウィルスにより発症するような話。
身体が疲れすぎているという合図だから、十分休むように、残業はいけない、、、
帯状疱疹とのことで、帰宅後はずっと窓から通る風を受けて寝転んでいた。
夕方少し回復した気がしたので、電気店でテレビを見てくる(運転はしていない)。
早めに寝、今朝は何とか地元の祭りの準備に行く。
かなり楽にはなったので、県民会館の陶芸展へ行く。
口作りが大切と教えてくれたりもした方だったので、整った姿を見てくる。
蝶の模様が、花の模様に見えるようなデザインなど、、、
図録を頂いて、そのまま昼頃帰宅。
週に3日ほど休みといっても、その日々も疲れが抜けきったような気にはならないのが続いていた。
単に鈍ら者という意識はどこかにあった。
自分は悲観主義的な方なので、無理して良い面を探す努力はあまりしなくてよい、つまり辛いことで精神が参ってしまうことがない、耐性がある(大なる悲観は大なる楽観に通じる)。
何をしても全力を尽くしていると感じることはない。
その結果が、身体の反応になって出てきたのだろう。
昨夏始まった吐き気の感じが、今夏は胃の鈍痛として始まり始めていた。
昨年は検査の結果、肉体的には何の問題もなかった。
漆をしていなければ、今の収入のための仕事は、肉体的限界内なのだろうか?
自分的に言えば助けてくれる人がいるにはいて、ありがたいが、生活のための収入という意味では売る仕事方面からの手助けというか、ツテがない。
健康を害しながらも、将来への決断力がない。

8月13日(金)

帰省中の子供の運転で水墨美術館へ行く。
KNBラジオで知った展覧会。
図録を見直すと是真作品は13年前に観ていたことになるらしいが、細かいことは分かっていても、よく見えない。
何を感じ取ればよいかよく分からないが、評論家的には細密技法がそうとは分からない(つまり、うるさくない)ということかもしれない。
作家的にはどう作ったかということの解析が大切だろうが、単に順に関してもよく分からない。
別格とは感じるが、謎めくところが必要だという刺激は受けた。
素地が乾漆かという記述(図録)があったが、文化財の調査が始まった明治の何時頃乾漆技法が再認識されたのか、再現を試みられ始めたのか、学問的ではない記述ではある。
竹や木地蒔絵という作品があったが、それらしく見せている技法なのか、本当に竹や木地なのかというふうにも考えてしまった。たぶん図録の解説どおりなのだろうが、、、
Khalili Collection(右)と今回(左)ので同じモチーフのを並べて撮ってみた。

デジカメの電池が切れていて、子供の携帯で写真を撮ってもらおうと池のほうに歩いていた。
見たことがある感じの人が歩いてきたが、似ているだけなら見つめ続けることは失礼に当たるし、、、
思いもしないところでだったが、輪島からおいでたのに会った。
漆的には別に不思議ではないし、会場では小学生らしい子が夏休みの研究の感じで親と特徴を探ろうとしている姿も見かけた。
漆の魅力を心に残して育ってくれれば、作家的以外にも漆の再生があるかもしれない。
ラミー紐を併用すれば実用的にも丈夫な漆器は可能である。

8月9日(月)

日曜に免許の更新に行き、水墨美術館へ寄るつもりだったが、更新へは今日行く。
降りるインターと言うか、交差点を間違え、常願寺川を渡ってしまったり、、、
駐車場はほぼ満車だったが、手続きは遅滞無く進んだ。
ひき逃げにならないためにちょっとした事故でも届けるようにとのことだった。
コスモでの豊城窯展に寄る。
出品者が一人だけおいで、見て回ってからの話だが、11時に始まるのらしかった。
乾漆の話などをしていると、主宰者がおいでた。
そのうちまた来客。明日の演奏会のチケットなど。
出品者の作品に関し、勢いよく描くとしても、紙で練習してから、そのままの感じで描けばよいなどとアドバイスされていた。
ひとりはfmとやまの廣川さんという人らしいと会話を聞いていて分かったが、もう一人の人は帰りに記帳されたのを見て分かった。
ガラス工房の野田さんという非常に有名な方だった。
高齢に見える方がおいで、金沢の何かを持ってきたとか話されているので、そこからおい出たのかと思ったが、私のことを石動か福岡に住んでいるように紹介されようとしたので、「小矢部です」と言ってその方を見、「西村先生!」。こちらを見て「砂田君?」。40年以上振り。
高校のとき七社に親戚があると仰っていたことがあるし、ずっと以前の展覧会での受賞記事なども見ていたらしい。随分方向が違ってしまったねというはなしなど。主宰の方の妹と結婚なさったことも私のことを思い出すきっかけになっていたのかもしれない。
2時間ほどいてから帰宅。
車検代を支払いにいってからやっと乾漆などを取り出す。
仕上げのイメージを作り上げようと庭において、花や蕾と見比べてみたり、、、
思いつかず、注文を受けている紐胎杯の内側の2回目の中塗りをする。
後は下地で直したり、、、
こんな少ない漆の時間では、たとえ自営を望んでも上手くいかないだろう。
自分なりの特徴と方向を見つけなければならない。

8月8日(日)

今日は20年ほど前初めてお見かけしたときに、法隆寺金堂の釈迦三尊像(の中央の釈迦如来像)に似ていると感じた方の葬儀だった。
支部で有能な方が60過ぎでよく亡くなっていく。
先週は残業が多く、汗だらけになり、どれだけ水分をとっても満足できない感じだった。
寒いよりは暑い方が好きだが、体調は良くはない。
昨日は外気の暑さだけで大したことはない日だったが、動くのが重かった。
5年前の失業中の作品作りで、皆はこんなに楽に仕上げているのかと感じたが、その後、今の筋肉労働のところでしか収入を得ることが出来ない状態になった。
不況で休みは増えたが、漆の仕事は毎日数時間ずつ続けることの方が大切で、長時間かかる作業の場合だけ休みの日が役に立つ。
今年は少しだけ余裕を持って仕上がる予定だったが、摺りの2回目をし始めて、蓋の側面にムルロワ環礁のような染みがあるのに気づいた。
拭き残しか、無意識のうちに触ってしまったのかなどと思い、セーム皮で磨いてみた。
取れないので胴擦りしなおしてもみたが、縦1センチ、横1.5センチほどのその部分全体が黒っぽい朱になってしまう。剥げた。
その一辺だけを塗り直してはみたが、当然のことながら朱の色が合わない。
数日すれば合ってくる事もあるにはあるが、可能性が低いので、溜め塗り変更。
輸送搬入の予定なので、塗りなおす回数は一回しかない。
以前黒漆を少し混ぜて透明度を落としたことはあるが、朱を5パーセントほど混ぜてみた。
縮みを恐れ、入り隅を浚えすぎ、それがそのまま残ったし、他のところも薄めに塗り、斑が残った。
入り隅は金髪刷毛でそっと仕上げ、他のところは普通の厚みに塗っておけば、何とかなったかもしれない。
どっちにしても透き漆1回塗りで仕上げるのはかなり無理があるだろう。
キレイという点でとても通用しない、つまり自滅した。
初の連続落選が確実で今後どうしていくか考える必要がある。
生活できない収入でも、漆で稼げないままでは、無いよりはましと考えるしかないのか、、、

7月18日(日)

日本産漆は無くなってしまったと思い込んでいたが、昨日、遅口のチューブを探すと、日本産だった。
普通の黒漆もチューブ入りで日本産のがあった。
朱を練るための透き漆(木地呂漆)の日本産が無くなっていたのだ。



昨日は遅口を3割ほど混ぜ、エアコンで湿度を落とし、全部日本産黒漆で塗ってみる。
乾きが遅くなりそうなので、塗り終わってすぐエアコンを消す。
暫くしても60%にさえならないので、下に湿ったスポンジを入れておく。
今日、続けて上塗りするつもりだったので、乾き具合を見るため4:30頃見ると青息程度の乾き。
急に加湿してもまずいので、下の段に移す。
乾き具合も見ずに、6:30頃に加湿シートに通電開始。
1時間後ぐらいに見ると艶がうまく落ちていたので、そのまま加湿。
静岡炭で研ぎ始めると、小さい部分的だが、ところどころに光ったままのところがあるのに気づく。
腕の汗とかが付いたり、汗か唾でも落ちていたのか?
「うるしの話」(岩波新書)にあるとおり、不純物に対して敏感な反応。
湿ったスポンジの上に直接置き(といっても数センチは離れている)、白ボケになったが、何とか乾かす。
今日は、エアコンをつけずに塗ってみる。

昨日ラジオで「真(ま)」を接頭辞としてつける話(俳句だったか?)をしていたので、漆にも真をつけたらどうかと思いつく。
「本」漆という用語だと、漆は皆本物だから、そんな「本」はつける必要がないと昔Saさんが言っていた。
「真」漆(まうるし)なら、強調するだけと説明がつく。
すると「真漆塗り」へとつながり、「真塗り」という用語になる。
広辞苑や大辞林で「真塗り」を調べると、黒漆を塗るという意味だけが書いてある。
日本産漆を、イメージ的に1時間で乾いても縮みが発生しない厚さで塗ったのだが、そんな厚みでもそれなりに流れ、艶も落ち着いたように乾いた。
真塗りとは、黒漆が漆塗りの基準となった時代(いつかは不明だが)につけられた呼び名と考えられる。
真行草の真というより、基準というか正当という意味で真が使われるようになったのだろう。
数百年前だから、当然日本産漆しかない。
蝋色仕上げが塗り立てかは、時代の変遷とともに意味が変化している問題にしか過ぎないのだろう。
塗り立てで、枕刷毛が大切だと伝統工芸展が始まった頃言われていたという話をSA先生が聞かされたと聞いたが、時代の変遷で、、、?

7月4日(日)

生活のための収入を得る仕事の日は身体から水分が抜けていく。
金・土と寝転んでいる時間が5−6時間ほどで、熟睡できず、疲れが残ったまま。
昨日は、午後3時から中学の追悼法要を寺でする予定だったので、結局、中塗りが出来なかった。
15分ほど前にゆっくり走り出して寺へ行くと、ほとんどの人が集まっていた。
同級生2名の追悼法要(遠いが二人とも血縁があった)。
それからバスや車に分乗して、高速を利用して氷見へ。
中学の同級会、前回は参加してなかったので、久し振りの人も多い。
まさにアラ還なので、45年ぶりの人もいるし、分からない人もいた。
漆で生活が出来ないと話してはみたが、それこそ使ってみたいという人がいないとどうにもならない。
(これを意味が分かるように書けば、君が使う気にならないと何も始まらないということになる)
展覧会のことにしても、ニッ展というのが出てくるので、ニン間コク宝の関係だと説明することにしている。
初入選の案内以来案内がないし、後は全部だめだったのか?とも。
風呂では、テレビで見たという話もあった。
リタイアした人や役員で定年がないと言う人や、、、
白くなったり、光ったり、、、
2次会は一部屋にほぼ全員の30人ほど集まり、12時過ぎまで飲みまくり、、、
次回は5年後。メタボの人も多いので、、、
朝は6時前に起き、今日も不眠症の睡眠不足が続く。
プラスチックの椀のお汁に皆熱い熱い!それこそ木地の椀なら、、、
帰宅後は、廊下で寝転んだりして、疲れを取る。
何とか主に名倉砥で研ぎ上げ、黒漆で中塗りを入れる。
1時間あまりでほとんど乾いているようだ。

6月26日(土)・28日(月)

昨晩は11時半頃まで中塗りをしていたが、相変わらずの不眠症。
どうせ熟睡できないからと、5時半過ぎにスロージョッギングに出発。
岸渡川のそばを走ろうと思っていたが、新幹線の工事で通行止めのように見えたので、また道路に戻る。
遠回りで5キロ弱走り、置いてあった自転車に乗って戻る。
パソコンを久し振りに立ち上げたりもする。
少し中砥ぎをしてから、雨の中車で出かける。
視野検査の結果などを受け取り、もう一つの病院へ。かなり回復しているようだ。
左目の視野検査に着色してみた。30センチ離れた視野。
赤っぽいところが正常なところ(1ミリ径の弱い光を感受できる)。
黄色っぽいところが1ミリ径の強い光が感受できるところ。
黄緑っぽいところが10ミリ径の光が感受できるところ。

中心のそばは黄色っぽいはずだが、違うようになっているし、、、???
眼球を動かしたりするし、30センチのように近くで見ることはほとんどないので、日常的に格別不自由はない。
右目はまだ少しましだし、、、
残された寿命とか暗さとかいろいろあるにはあるが、、、
昼寝を少ししたりしながら、研ぎ、黒で中塗り。
内脇に膨らみが目立ったので、ポリネット#80で研ぎこみ、布をかなり出した。
時間がないので目摺りもせずに、そのまま塗った。
平日は疲れが残ったまま不眠状態、筋肉の疲労も抜けない。
たぶん腹式呼吸が回復に役立つのだろうが、サボりまくっている。

(28日)昨日は支部部会の研究会、自転車で行こうかと思っていたが、小雨なので車で行く。
無料区間のみ高速を走る。
作る前に十分検討してかかる方ではない、つまり作りながら感じたり考えたりする方なので、石膏原型とも変わり、最初の素地とも変わっていく。
どんどん重くなるし、失敗なく出来るはずの素地に比べれば弱いともいえる。
皆の作品に対して共通することだが、主役を何にするか、それをどう生かすか。
指揮者として構成を考えることが必要とのこと。
加飾を過飾にしてはまずい。
使いやすいことは良い形に関係ある、、、
布や和紙を編む装飾などいろいろ工夫、薫炭を粉にした下地の話など、、、
高齢に関して、アミカルには96歳で元気で、制作もし、英語も喋れる方がいるとは思ったが言わなかった。
鑑査員も決まっていて発表されていたらしいが、去年も調べなかった。
帰りも高速を1区間利用し、そのまま出町へ。
かなり元気が戻ってきているようだ。

6月13日(日)

梅雨と書くということは雨が降ることを意味に含んでいるはずなのに、雨が降る前から梅雨入りとの発表。
ずっとうす曇の感じだったが、暗くなってやっと雨模様。
5日(土)は、歯科の治療を終え、列車で金沢へ。
石川の伝統工芸展と富山支部展を比較すると、陶芸で極端な差を感じた。
高野漆行へ行き、生漆と地の粉などを買う。
百万石行列を見学、駅に戻る途中で利家公を見かける。
12日(土)は、「となみ野美術展2010」の開会式へ車で行く。
中学の一年下のakihiro君が受賞者の発表などをしていた。
horita先生は仲人をしたと言っていた。作品を処分しておかないと、子供が困るだろうと近所の人に言われているとか。
帰宅後、また出町へ。1時の約束だったが、バス時間が早まったそうで、もう待っていた。
途中で道を間違え、中田経由と遠回りになったが、富山へ。
38年ぶりぐらいに後輩に会う。
20年余り、積極的に回復に努めてきた話。
準備してあったアルバムとか100年史とかを見て、昔のことや皆の近況など。
再訪を約して、帰路へ。途中、海王丸パークへ寄る。
また出町へ行き、夜高祭りで賑わう中、昨年と同じ店で飲む。
店を出ると人波で溢れていた。
別れて、歩いて帰るのも面倒なので、むかえに来てもらう。
胃薬が無くなって久しいと言うか、全く飲まないできているが、二日酔いにはならなかった。
今日も午前中は、公民館の掃除とかで、漆をほとんどしないまま。
地研ぎ、灯油とリグロインで薄めた生漆を吸わせたり、、、
線を決める研ぎ方をいろいろ考えているが、結局、よく見、慎重に少しずつ、ずれないように研ぐしかないようだ。
定規を当てて、鉛筆で線を書き、それを一応の目安にはするが、実際にどう研げているかを確かめながら、研ぎ進めるしかない。
線は、両側から研ぎ揃えるというのも大切な点だろう。
入り隅の場合、谷側を研ぎこむこと、平地側の高さを低くして線の位置を谷側にずらし、正しい位置に来るように研がねばならない。

5月29日(土)

今年初めてスロージョギングを霧雨の中、する。
足音をあまりたてず、蹴らないという負担のない走り方。
昨年秋から冬にかけてやつれた理由は、盆あたりから風邪がずっと治らなかったことに始まる。
健康診断の結果に、肺の影、心電図のSTなんとか、、、
強いシンナーの充満する仕事が嫌なまま、弱気に引きずられて、だんだん調子を悪くしていったのだろう。
食事の途中で吐き気を感じ、あまり食べないし、朝走る前に何も摂らないことで余計体力を消耗していったのだろう。
50キロをきった体重も更に弱気にし、走りやめていた。
ためしてガッテン(NHK)でやっていたスローステップ運動を休みの日にしていただけだった。
勤めの休みが少なくなりそうな雰囲気だが、休みの日にまた走ろうと思う気になる。
この前の日曜は、支部展の当番、列品解説の役は3回目。
小学校以来、人前で話すのは苦手のまま生きてきた。
1998年、正会員になった記事が新聞に載ったとき、ロータリークラブの人が来て何か話してくれないかと言ってきた。
なぜ受けたのか記憶にないが、そのときは昼食のカレーライスを食べると、モヤモヤした気持ちが消え、乾漆について話した。
列品解説にしても、あまりよく分かっていないのが本当のところだから、俄か勉強はした。
自分の持論を展開する講演会ではないし、展示品に関して何かを言うしかない。
技術にしても分かる感じがするのは、乾漆関係だけと言ってもよい程度の人物である。
作品の特徴的な点を技術的に説明するのを主にした。
塗りと加飾があると言いながら、塗りの塗り立てと蝋色の説明を忘れていた。
錆絵の説明にしても、下地の錆を合わせ方が違うとは言ったが、どこが違うかとは言っていない。
錆絵は、蒔絵と同じように、丸みのある盛り上がりで描かれている。
くどくどと繰り返せば、下地の錆の合わせ方では、ガタガタした表現しか出来ない。
あがっていることもあるが、日常的にもド忘れが多いので、マァーいいか。
漆の乾き方の特徴とか、関心を呼べることの説明も忘れていた。

今日は歯医者に霧雨の中自転車で行く。
帰りは雨が上がっていたが、寒い感じのまま。
塗り直した花弁鉢の蝋色研ぎ。
静岡炭で力を抜いて、狭い範囲を細かく動かして研げば、斜め方向から見れば、傷が浅いと分かる。
蝋色炭でも、刷毛筋が消えないと、力を入れて研げば、静岡炭の深い研ぎ傷と同じ傷が出来る。
クリスタル#1500以上の研ぎは、胴擦りと同じと言える気がする。
問題は、研ぎ難い凹み形の部分が上手く研げないところにある。

5月16日(日)

昨日は午前中、奥歯が少し痛むので歯医者へ行く。
天気が良かったので自転車で行ったが、場所がよく分からず、通り過ぎた感じがして戻り、何とか見つける。
20年に1回歯医者にかかる感じだが、虫歯になっているところを削り、神経を抜くという治療。
その後、ずっと奥歯が痛く、固いものは食べられなくなる。
昨日午後から、花弁鉢を塗り直したが、今朝見るともう暗い色で乾いていて、縮みが発生していたので、削る。
戸をあけて暫くしているから、実際の湿度はまだまだ高かっただろう。

一緒に塗ったチューリップ形の盃は、別の風呂に入れていて、今日の夜になっても光ったまま。

今日の午前中は、地区の行事予定を作成し、班内にいろいろ配る。
その後、風呂を覗いてみると縮んでいたのだが、少なくなった糊漆を作ることにした。
昨日一日の作業がパーになったので気落ちはしていたが、米粉:糯粉:小麦粉をほぼ同量混ぜて煮て糊を作ってかかる。
午後からは美術館へ行く。
天気が良いので自転車にしようかとも思ったが、ネクタイ姿なので車にした。
名調子の解説を聞いてから、研究会。
火曜日以降美術館へ行っていないので、支部関係の展示ははじめて見た。
初めて顔を出したからか、何か言えということになり、自分の作品の説明をした。
自分の感覚が、会とズレがあるのは感じているが、評論家的な見方ではなく、自分ならどう作るかというふうに見るべきとか、どこをどうすれば良くなるか具体的に指摘できなくてはいけないと本の箴言集にあったのを意識してはいた。
それが出来ないから困っているのだが、、、
作品で、5ミリずれても何の印象も与えないところもあるが、0.3ミリほどずれるだけで大変な違和感を与えるところもある。
その極小さな違いを感じるところに作品の要があることが多く、最適なところを見つけられればよい作品になる。
帰宅後は、紐胎杯の内側から外側の半分強まで糊漆刷毛付け。
この前亀裂が入ったので、口あたりは細い麻紐で幅を揃えるようにしないといけないが、よい方法が思いつかない。
下地で幅を揃えるようにし、下地を盛ったところに細い麻紐を押し込むようにすれば良いか?

5月8日(土)

3日(月)は、高速道が余り混まないだろうとの予想で、遠く天橋立へ行くことにした。
ETCはあるが、カーナビなし。
敦賀までの北陸道は1000円との音声。
小浜西からの高速は、綾部のジョイント経由で、舞鶴大江インターから大渋滞。
京都のFMラジオでは「流れが悪い」というものだったが、、、
宮津天橋立インターでは、1400円との音声。
その後も渋滞が続き、歩いた方が速いくらいで、途中で宮津駅に向かうことにした。
駅横に駐車場があり、一日400円。
午後3時を過ぎていたが、天橋立行きの列車がすぐあり、乗り込む。
地理感覚もはっきりしなかったが、昼食。
橋を渡り、松林が風に傾いた姿を見せる中を歩いて向こう側に行く。
戻りは船に乗ろうというので、観光船に乗る。4:45pm発。
カモメが飛んだり、ボートが走ったり、、、
駅への近道を教えてもらい、何とか北近畿タンゴ鉄道に乗ることが出来、帰りは同じ道を逆方向に。
天橋立方向の高速は、まだ渋滞が続いていた。
小浜西インターを出た頃は渋滞したが、その後は流れてくれた。
小矢部川サービスエリアで食事。
行きは7時間弱、帰りは5時間弱。
4日(火)は、一人でいることになり、曉光展に行くことにした。
風が強かったが、自転車のチューブを換えて、パンクする心配がなくなったので、自転車で出発。
西高岡近くで、今まで通ったことのない道を行ってみたら、遠回りになってしまったが、追い風でペダルを踏まなくても良い感じで楽だった。
国吉大橋というのを渡り、小矢部川の堤防沿いの道を進むと、R160下に道があり、光臺寺に到着。
線がきれいに表現されていたし、細かい仕事が上手くしてあった。
顔見知りの、現Kさんが、子供が保育所にやっと慣れてくれ、漆をまた出来ると言っていた。
帰りは電気店でDVD-Rを買い、横風とやっと進むことが出来た向かい風。1:50pm帰宅。
夕方から皆で湯楽楽。
5日(水)は、子供が東京に帰っていく。
午後から城端の曳山祭に城端線で行くことになる。
あまり人通りがないと思いながら、寺の辺りに行くと、山車が通っていて人も集まっていた。
案内所でもらったパンフレットで巡行予定が分かり、先回りしたり、、、
いるはずのOさんがいないかなと見たりもしていたが、帰り道の方向でやっと見つけた。
鶴舞山と竹田山が先祖が作って物だが、大工町のはそうではないとのこと(名前はパンフレットを見て)。
坂での方向転換を動画で撮影したつもりが、ダイヤルがメモモードになっていたり、、、
観光客相手というより、地元の人が楽しむ祭りという感じで、良い雰囲気だった。
不況で勤めているところも連休続きの感じだが、気分転換という点では、皆が揃うことが大切。
自分の仕事でかなり手抜きが目立つようになっているので、反省し花弁鉢を研ぎ直すことにした。
今日(8日)行った金沢でも、漆が売れないことから始まり、漆の話ばかりしていたような、、、
9日(日)は、久し振りにほぼ一日漆の仕事をしていた。
塗り直す花弁鉢に朱塗り。
紐胎杯の素地2個をつくり、14個の内底に麻布貼り。
箱の内脇の縦方向に研ぐのを少ししたが、形を揃える研ぎはどうすればよいのか?
無駄のない仕事をする工夫が大切。

5月1日(土)

先週はアミカル会関係で氷見に行く。
乗り合わせでラ・セリオールへ。
思いもしない展開があり、「休火山」云々。
東京からも到着され、昨年のアミカル展のオープニングパーティにおいでた網元のお宅の訪問。
築100年ほどだが、17代に当たるという当主の案内で、格調高い佇まいの見学。
ピクメイトに掲載した画像より詳しい説明があるので氷見の家を見てください。
ラ・セリオールとはフランス語で鰤のことだとのこと。
富山湾でも氷見側は急に深く切れ込んだようになっていて魚が集まるような話、、、
定置網も魚の習性を上手く使っている。
北米の先住民に定置網を教えるのは良いことだが、技術を指導するという態度では受け入れられない、自然を生かしたまま豊かになれるという形で接するべき、、、
ラ・セリオールに戻り、総会。
東京展中止の経緯も唐突、休火山云々も唐突、、、
アミカル展が富山県の文化の発展に寄与できるかどうかが存続の意味になるとの発言。
ジャンルを超えた交流が魅力だし、自分にとって参加することを否定する必要はない。
懇親会の後、歩いて5分ほどの網元のお宅で2次会。
還暦を前に、またNさんとともに最年少になる感じの会だが、飲みっぷりはついていけない。
翌朝、海を目の前にする露天風呂。
能登島に向けて出発。県美連展会長の車に乗せてもらう。
ガラス美術館に展示されていた鶴太郎の作品をほしいという人はいないような、、、
漆的に見れば、技術が低いということより、漆と関わることによる必然的な表現ではない、つまり緊張感がないということだろうか、、、
水族館、昼食後、それぞれの方向に向かうことになる。
家まで送ってもらうと、紐胎杯の注文が11個に追加4個とのメモ書き。
高波のチューリップまつり云々とあり、出かける。
兄の同級の、又従兄弟のToさんやIさん、自分の同級のY君が世話役でいた。

昨日は旭川から手紙が届く。
昨晩テレビで少し見ていた動物園の園長の番組、行動展示への苦労、、、
8人ほどで住んでいた寮へ連れてきて、柔道部のキャプテンのKoだと紹介されたひとだ。
定年など年が合わないなと感じたが、自分たちの年は浪人が6割だった。
校長をしていることに関しての話で、東大京大への挑戦が減ったとあったが、過去の自分の感想は最低点の魔術だ。
受験生を惑わす最低点だが、東大や京大が出来がいいのは、最低点が高いからではない、その最低点よりはるかに出来のよい人が2/3ほどいるから。
受験成績と人生の過程と相関関係にないことを無視しても、数字に含まれる意味(人口比も含めて)は検証してかかる必要がある。
今日は、テレビでDVDが表示されないという従姉、98SEでは駄目だったが、VISTAでは映った。
体重が50キロを切った頃の取材だったろう。

4月7日(水) 入り隅の端幅

入り隅の端幅を定規でどう揃えるかについて考えてみた。
鉛筆で考えたことをCADで作図してみた。

大きな円を作品とし、下の円弧を入り隅と考える(単純化して)。
赤線は大きな円(作品)の中心に向けて定規を動かすときの概略的な動き。
青線は円弧の中心あたりを通る線に平行に定規を動かした場合の概略的な動き。
緑線は下の円弧の中心に向けて定規を動かした場合の正確な動き。
入り隅の円弧の中心に合わせて定規を動かすことで正確な端幅が出来ることになる。

3月28日(日) 紐胎での失敗

午前中は、地区の江浚いなど。
上塗りする気にならないし、布貼りとか下地付けしてあったのを空研ぎ。
寒い感じの日が続いている所為か、乾きが悪い。
紐胎杯・盃を久し振りに取り出し、作業の続きをする。
内側の側面は艶消しをし難いので、細長い砥石で研ぐことになる。
杯の方で、亀裂が見えるものが一個あった。
亀裂を防ぐためにラミー紐を使っているのに、ありえないことでは?
端幅を作るというか、揃えるために下地で作った部分に亀裂が走ったのだと気づく。

7箇所に発生していたが、紐巻きのときの端幅が狭すぎる気がして、かなり下地で幅を作っていた。
素地がまだ動くときに亀裂が発生していたのだろう。
亀裂の跡を彫るとどこにもラミー紐は見えない。

ひび割れが大丈夫なはずのラミー紐に影響を与える可能性が完全にゼロとは言えない気がするので彫った訳だ。
生漆を亀裂に吸い込ませて固める方法もある気はしたが、完全な修理の方を選んだ。
ラミー紐を細かく切って、彫ったところに糊漆で貼る。

端幅が狭くても問題はないのだから、無理に下地で作らないことにすべき。
その後、盃のほうにも1個の1箇所に亀裂があるのに気づき、同様の修理。
端幅を作るためには、ラミー紐を端付近にもう一周巻くべきかもしれない。

3月7日(日)

寒く感じる日が続くようになった。
今日は午後から七社の春祭りで過ぎる。
帰宅後、飲酒状態のまま、下地を渡し、定規を引く作業をしていた。
高校同期のI君が来、R君のところへ行きたい云々。
計算して日曜から日曜だから、今日が数え50日、49日の昨日納骨が終わっているのでは、、、
作業を終わらせて、一緒に行ってみる。
やはり予想通りの話で、come onという発音と同じ人(姉の夫)と暫く話していた。
将来がないということは、もう意見を聞かせてもらう機会がないということ。
漆芸のこと、職人的漆のこと、視野のこと、、、
反発を感じることも多々あったが、自分ではない視点は有益である。

手を広げ過ぎているのか、手の動きが遅いだけなのか、漆の仕事がなかなか進まない。
好みとしては、塗りよりは素地づくりという下仕事の方が好きではある。
いろんな形が乾漆で出来るということが面白味の第一である。
人が必要とする、人の役に立つということは、実に曖昧である。
石油化学に依存しないということは、間接的評価にすぎない。
パイが少ないということで、自分だけの保身を図るのが職人の世界なんだろう。
評論家的な知識ではなく、自分の問題を解決しようとする意欲が大切なのだろう。
最大の問題は、自分の問題って何?  売れる売れないという程度では?

3月1日(月) 真塗

桜町遺跡の片口をヒントに作ってみようと思っていたのを、粘土で作りだした。
底に粘土を詰めるのが面倒で、軽く並べて、裏返したときに支えとなる粘土を置き、上にガラス板を載せ、全体を裏返し、粘土をサランラップで覆った。
石膏雌型を取り、暫くして粘土を取り出すと、ガタガタになっていた。
出ているところは削って直しても、凹んでいるところはどうしようもないし、、、
カリ石鹸を塗って、少し裏から水分を吸わせ(時間を置いていないのでもともと水分を含んでいたが)、石膏雄型取り。
1時間ほどして、雌型を壊し、雄型を取り出すと、左右の狂いがひどすぎ、荒砥などでかなり研ぎ込む。
直りきらないが、合わせものではないしと軽く考えるところが自分の欠点。

片口とはどんなものかと器の特集してある本を見なおすと、かなり小さい。
さっき桜町遺跡の写真を見なおすと、粘土で作ったのとかなり違う。
端の下2,3センチの太めの線かと思っていたのは、端からそこまで多少太く作ってあった段だった。
その下のレリーフ模様も、口の手前あたりで止まっていた。
口が大きめだという記憶はあったが、粘土では小さめにした。
水分が流れ出すのに適した(裏漏れもない)曲線が分からないので、傾けていくのを水平に受け止める感じを目安にしてみたが、、、???
自分で作った粘土原型はどう考えても大き過ぎるようだ。
まさに器だから、何に使うか、桜町遺跡のは何に使ったのかと考えて作っていた。
祭祀、酒を入れたのでは?今でいえば瓶子では?
つまり1升ぐらい入る必要があるのでは、、、?と大きく作ってみたのだが、、、

石膏の作業の合間にもう一冊、「淡交別冊 漆の美 1992」を取り出して見たりしていた。
保真に関する増村先生の解説も載っていた。
漆に関する説明もまとめてあり、そこに「真塗」に関する記述もあった。
去年だったかの支部展で「真塗」とは黒呂色仕上げのことだという話になった。
私は、塗り立てというのをどこかで読んだ気がしていたので、首を傾げたり、、、
「うるしの話」(岩波新書)を見ても、それに関する記述はないし、溜め塗りが本来は塗りたてだとあったのを勘違いしていたのかな?と思っていた。
この本で読んでいたのだと今日分かった。
裏千家関係の本では、素グロメの黒漆による塗り立てを「真塗」というようだ。

2月21日(日)

朝、外に出ると霧が遠くを薄くおおっていた。
一日、敷地から出ることもほとんどなく過ごした。
会の方では何に使うつもりかと、事業仕分けの費用対効果のような形式的な質問が出そうな箱の空研ぎをしていた。
辺の形定規を当て確かめながら、出過ぎの部分を小さい砥石で研ぎ減らしたのだが、何時間かかかった。
ガタガタはかなり消えた。と言うことは付け方が不正確だったことになる。
辺に切り子地を渡し、形定規を垂直定規に沿わせて引く。
その後、昨日亀裂が走った縄胎箸の補強のために麻布を貼ることにした。
たぶん一番力を受ける、先から8.5-9センチぐらい(亀裂が出来たところ)の補強には、斜めに麻紐を巻き重ねるより麻布の方がよさそう。
適材適所が大切だと思う。

2月14日(日)

昨日は雪が降る中輪島に出かける。
少し遠回りになるがR君の家の前を通り、能越道の無料区間の高岡インター―氷見北インター、七尾経由。
信号のない道がかなり続くので、2時間半余りで着く。
途中晴れたりもしていたが、輪島は曇り。
漆芸展と市内の小学6年生の沈金椀。
どう塗ったのか分からないような作品もあったし、細部まできれいな仕事がしてあった。
また出すようにしないと、忘れ去られてしまいそう。
灰野先生所蔵だった図書が充実していた。
観たのは是真のをさらさらとだけだったが。
また降り出した中、下地用生漆を200匁買い、昼食をそば。
帰りは乗せてもらう。途中で寄ったところで漆製品の値段を見たり、、、
給油後、スーパーへ行き、箸とか椀の値段を見ると、七尾より格段に安い。

縄胎の箸は、巻いた紐目を下地で埋めても多少固くなっただけで、重い物を持ち上げることはできない。
今日はついに先1センチほどを残して和紙を貼る。
アイディア倒れになるかもしれない。
耳かきの方は、簡単にできたが、、、
注意事項として
1.乳幼児、小人には使わないでください。
2.耳の奥まで突っ込まないでください。
3.軽く回して使ってください。
などというのをつけないと、人に使ってもらうことはできないだろう。

2月11日(木)

縄で作っている箸、1回目は下地の混じった糊漆(または糊漆多めの下地)刷毛付け、余分のを布で拭き取り。
固くならず、2回目は下地を箆で目すりつける感じで縄目を埋め、余分のを布で拭き取る。
今日見ると、やはりあまり固くなっていない。
和紙を貼ると弾力性が消えるというか、壊れた場合、欠けてしまいそう。
布貼りは、縄目を消してしまうだろうし、貼るのも難しい。
ラミー紐を巻いてみることにした。
先1.5cmほどを残し、細いのを巻いて行った。



画像の左側は、箸の頭になる部分から中の太さのを巻き始め、細いのを少し覆うところまで巻き、そこからまた頭に向かって巻き戻した。
内側の糊漆が乾くか不安はあるが、締め付けてあるので、何とかなるとは思う。
縄目が一応感じられる程度だし、何とか固くなってほしい。
縄なので直線的には仕上がらず、少し歪んでしまった。

漆の精製に関して、「漆文化」に水溶性多糖類の粒径と分散が耐候性に関係あるようなことが書いてある。
それで備中漆フォーラムの冊子と工業試験所(三山喜三郎)の記録(インターネットより印刷してあったもの)を読み直す。
水分を抜くクロメ前の、均質化のためのナヤシが大切なようだ。
採取した漆は発酵し、均質化するらしい。
糟の混ざったまま摩擦するように(隙間1.5ミリほど)ナヤシをすると、粒が小さくなるようだ。
クロメた後ナヤシをしようとしても駄目なようだ。
遠心分離機とかいうような話は噂では聞いたことがある。
真空状態でナヤシをすれば、酸化反応を避けることが出来るのでは?
ミキサーとかにかければ、粒が小さくなったり、分散がきめ細やかになるのだろうか?
こんなことは実験してみる気はないから、単なる思い付きを書いただけ。
紫外線に弱い漆でも、きめ細かに分散すればかなり改善はする感じ。
精製漆の方が耐久性があるかもと、リグロインで薄めてみようとしたが、混ざらない。
生漆も混ぜると混ざったが、その上効果があるか不明だが、固め用の漆として使ってみることにする。
亀裂をラミー紐で修理した椀と耳かきにでもならないかと試作し始めたのに初使用。

2月8日(月)

先週は5日間仕事で、今日は半日で帰宅。
縄胎で作ろうとしている箸は2度目のリグロインで薄めた生漆による固めでかなり固まったが、まだ物をつかむには柔らかすぎ。
先がきれいにできていないので、空研ぎで直そうとすると少し紐が顔を出す。
斜め方向から縄目を見ると、右側のが上下方向に長い感じで並んでいるような線が見えた。
左のは斜め45度くらいに並んでいる線が見える。
同じように作ったつもりなのに表情がずいぶん違って見える。
横から見た縄目は全く同じに見えるのに、、、
左の方が少し歪んでいる感じ(画像では分からない)。



生漆を吸わせ、湿りの中に置く。
いろいろな作業をしてから縄目に下地を摺りこみ、谷間に入った以外の糊漆を布で拭き取る。

2月7日(日)

少し前、問い合わせたところから案内が届いた。
いろいろ考えてしまうことはあるが、我流が強い点、人のしないことを平気でしていたことも多いと思う。
縄胎で箸を作ってみようと昨日試作を始めた。
中の太さのラミー紐を3本合わせ、撚りを入れて縄を作った。
12本の紐でできた縄にし、リグロインで薄めた生漆を吸わせ、重石をつけて一日吊るしておく。
今日はかなり固くなっていたが、実用に耐えるには程遠い。
2度目のリグロインで薄めた生漆吸わせをする。
内部まで薄い生漆が入っていないと実用には耐えないが、多少脆くなることにもなる。
2度目は途中までしか入っていかないから、多少濃い目のにした。
問題は今後どう縄を固めるかにある。
糊漆や下地だと弓なりになった場合、割れてしまわないか、、、?
持つところは紐を巻いて補強する予定なので問題はないが、先のところは細くないと実用的ではない。
和紙とか布を使うのはどうか、様子を見て作業を進めてみるしかない。

乾漆を作ったのも、木地に麻布を貼るのと同じだろう、枚数を5枚ほどにすれば良いだろうと軽く考えてだった。
麻布2枚作りに挑戦したのも、経験豊かな者ではなかったからで、本にあるから出来るのでは?との考えだった。
刻苧や下地で固めるようにしない限り、2枚では動かない素地は出来ないし、脆いのが最大の欠点とわかった。
思いがけずラミー紐の強さに気づいた点が最大の収穫だった。
ラミー紐は漆塗りをしている人なら普通に使っているものだが、ほとんどは加飾的につかっている。
木地の補強にもなるから、それで何の問題もない。
自分の場合は、補強用に使うことから始め、それを加飾的にも使うようになったというだけで順番が逆なだけだ。
紐胎素地作りは、今までは途中は大量に糊漆を渡しておいて、手でグルグル2センチ幅ほどを巻いて、後で刷毛で直す方法だった。
この前のチューリップ形の素地作り方から、基本に返り、1周毎に刷毛でキチンと巻いていくようにしている。
今日も、油断しない限り隙間が出来にくい基本的な巻き方で行った。
時間が倍ほどかかる点が気になるだけだろう。
まだ漆塗りを習いに行く前に、塗料屋さんから生漆を買い、本にある記述だけを頼りに漆をクロメようともしていた。
1986年6月8日の写真をアルバムからデジカメで撮影したものを載せる。

上の子の手伝い

黒漆にしようと釘を入れてみても、色が変化せず、釘をヤスリで削って混ぜると黒くなっていった。
水分が天日で抜けて、クロメ漆になったのだろう、後日、お椀に吹き付けしてみると滑らかに塗れた。
細かいゴミが目立ち、漆の吹き付けは思うようにならなかったが、、、
我が家にウルシノキがあったころも、掻き取った漆を平皿に入れて天日の下に置き、風が吹けば、自然にクロメが出来るのでは?とやってみたり、、、
辰砂を使いこなすための素グロメ漆をどう発見したか?も、こんな感じだったのでは?などと素人的に考えていた。

1月31日(日)

昨日、熱湯による臭気抜き・熱処理・欠陥検査を紐胎と木地椀で行う。
詳しくは、螺旋模様椀の亀裂(失敗)というページに書いた。
昨日は午後3時過ぎに研修会というのに参加するため、家を出た。
バスで粟津温泉へ行き、創業以来699年というところで一泊。
正月には松井選手が風呂に入っているのに会った人がいるそうだ。
ウェルかめの勝乃新役の実母だという人が働いていた。
塗りもの関係の椀、御膳なんかは全てプラスチックだった。
漆の仕事もしているということも多少は話したが、広がりはなかった。
ケーブルテレビのことも誰も知らないし、少しでも顔を出す努力すべきかも。
世の中からこれだけ漆の品物が無くなっているということは、逆に漆の再生のチャンスでは?と感じないこともない。
今の世の中は、買うというより、自分で作ってみたいという人の方が多い感じはする。

1月24日(日)

朝電話をして、残りの家を回り、全部終わり、書類をまとめた。
在宅の曜日や時間帯が人により違うので、何度か回る必要がある。
4年目になるが、年度ごとの書類もついでに別々の封筒(大)にまとめた。
片づけても、何やらかやらと後から送ってきて、すぐがちゃがちゃになる。
昨日回った一軒で、テレビで何度も繰り返して見ていると言われた。
13日(水)には、寺から見たという電話があったそうだし、母の実家の叔母は偶然見たとのこと。
そのほかには反応はなかった。
昼の最後の放送を見せてもらいに行く。



午後からは艶消しをして、紐胎の品と椀に透き漆を塗る。
途中、玄関から大きな呼び声がした。
高校が同じだったI君で、R君の家の前を通ると、冬なのに玄関が開けっ放しになっていたのでどうしたのだろうと寄ったそうだ。
驚いたと家に来たそうだ。
10年ほど前家に来た時、1mほど離れたところで生漆に接しただけで、すごくかぶれたと電話してきた。
漆を塗っていたので、寒い中、外で2時間ほど話していた。
頑固おやじになったような感じだった。

1月23日(土)

すっきりしない日々が続いている。
今日は、午前から昼さがりまで、引き受けている役の一つのことで回る。
かなり思い違いをしていたと気付かされる。
保証額を基準にするか、保険料額を基準にするか、その表示が出来ているか否か、思い込みの強すぎに気付かされる。
すっきりしいないのは、匿名で登場させている人物の死に関してであるのは間違いない。
第一印象は、中学入学で、体の柔らかさを示すように両脚をピタリと床に開いてつけている姿だった。
それが一回目の試験の結果の発表で、かなり差をつけて1番の人だった。
同級生が69人の中で、6人が県内の所謂御三家で半分以内に入るぐらいの中学だった。
内5人が所謂御三家の高校に進み、一人理数系で特異な才能を示していた。
物理の問題が難しいとき、誰も解けないような問題をかなり解けたらしく、2番以下に大差をつけていたこともあった。
2番以下といっても、総合点で全国11番、入試でも理V志望から京大に変え、40代で大学院教授になった人もいる。
私たちの年は、東大と東京教育大(現筑波大)の入試が中止となった1969年で、両校(一期校)で約4000人の定員がカットになった。
R君は、受験的には、教科書だけ(つまり参考書を持っていなかった)でその先のことが理解でき、才能的にはすごいものがあった。
京大理入学後、一度だけ森教授の講義に出たことがあり、1+1=2ということの数学的な定義だったか何かに三つの条件(?)がある話を聞き、その通りとあまりの興味深さにここに引き込まれては駄目だと以後心を閉じたような話をしたこともあった。
学生運動、その後20代の活動と、こちらとしては詳しくは知らないが、本人の人生をかけた日々が続いたようだ。
30代になり帰郷し、しばしば家へ来て時間を過ごすことがあり、そのうちこちらで過ごすようになったと分かった。
職務質問、就職先への過去の漏えいなど(結果としての解雇)にも耐え、弱者への不当な扱いへの抗議を除いて、沈黙を守った生活を続けていた。
自身をuragirimonoと言い続けていたが、徐々に政治的発言も減り、晩年(?)には間違っていたと言った。
このことはこの前の日曜の晩に妹のRさんにも話はしたが、たぶん他に聞いた人はいないとは思う。
通夜の席で、菩提寺の津山さん(僧)が言っていたように、過去は変えられないが、過去の意味は変えられると考えるしかない。
一方的に話を聞かされるような関係だったが、換言すれば、こちらからあまり意見を言えるような世界ではなかったと言えるが、4年ほど前に子供のことでこちらが腹を立て、席を立って、出町から歩いて帰って以来、意地の張りあいのようになり、交流は途絶えていた。
このことも妹さんには話した。
死者の悪口を言ってはいけないらしいが、そんなことは別にして、数学と物理に特異な才能があったとしても、人間理解にすごいという感想はそんなにない。
結果として学問的に何も残せなかったということより、人生をかけたという20代の活動が最後まで心の闇として残っていたということが本人の人生だったのだろう。
自分をいじめるように飲み続け、結果として、自分で自分をコントロール出来なくなったと言えるのかもしれない。
未だに死が信じられないので、最後の言葉は言わない。

1月18日(月)

昨日は午前中に、乾漆花弁鉢の摺り落としをし、蝋色仕上げを完了する。
午後は地元の総会・懇親会。
となみ衛星テレビの放送のことを誰も知らなかったが、兄が宣伝してくれたりする。
今度の日曜まで、昼と夕に10分ずつ。
片付けを終えてから、2次会に班長が行くことになる。
1キロほど歩いて帰宅すると9時45分頃。
Y君から電話があったとのことで、R君が亡くなった、、、
何のことやら分からない感じのまま、行くことにした。
弔問にではなく、会いに行った。
一つ違いだから中学の時から知っている妹さんが話してくれる。
12月には入院していたそうで、止めても駄目かもしれないし、治るかもしれないと言われていたのだそうだ。
20数年前の帰郷以来、飲み続けていたのだろう、心の闇と格闘しながら。
数万人は言い過ぎだろうが、1万人に一人くらいの理数能力を生かさなかった人生。
こちらが訳が分からないことでも、何とか単純な形にまで話を持ってきて、説明してくれたり、、、
作品のことでもいろいろ言ってくれていた。
「空間」というのが、こちらとしてはいまだに理解できていないが、、、
子供に優しい人だったと妹さんが言った。
家の子もよく遊んでもらっていた。
失業したころ、こっちにはっぱをかけながら、(出来はしないようになってしまったが)いざ自分のことになったら何だと言いたかった。
ずいぶん小さくなった感じだったが、顔は穏やかだった。

1月11日(月)

3日連続、割合、漆の仕事をしていた。
紐胎や椀の内側に黒漆を塗る。
案内があったので、正午頃、生家へケーブルテレビを見せてもらいに行く。
麻布を箆で貼っているのから始まった。
失敗したところは映っていなくて助かったというところ。
上手くまとめてある感じがしたが、気恥ずかしさもあった。
年齢が顔に出ていたし、自分ではなく父の顔の雰囲気もあるような、、、
昼と夕に、2週間、10分間の放映が続くとのこと。
午後は、この前の作図だと谷の位置の目安がないので、作図をし直す(下の図面)。
外形合わせと見込み周辺部の凹み直しという同じ作業ばかりしていたので、谷付近の形直しに取り掛かることにした。
今日は片側だけを作る。



取材された作品の胴擦りをし直し、摺りの拭き切り1回目。
その前に小箱(雄型・雌型)の布目摺りや粘土原型からの紐胎盃の内側に下地箆付けも。

1月10日(日)

彫塑用粘土をそのまま原型にした紐胎盃を型から外そうと、水を入れる。
暫くしてからゆるくなった粘土がすぐ取り出せるものと思っていたが、そうはいかなかった。
粘土作り用の道具で削り出そうとしたが、水分が途中までしか染み込んでいない感じで、時間を置かざるを得なくなった。
竹箸で削ったりして、だいたいは取り出せても、素地にくっ付いて取れない粘土もあった。
遺跡から出土した品に付いた泥を取り除くのも気をつけないといけないらしいが、同じ感じがした。
金属で削れば、素地に傷がつくかもしれない。(竹箸を使った理由)
最後は、使い古しの歯ブラシと、艶消し用に使っている硬めの刷毛で洗い流した。
乾漆仏なんかは、背中に穴をあけて粘土を取り出すというが、きれいに取れているのだろうか?
粘土に藁屑なんかを混ぜるともいうし、それで取り出しやすいのだろうか?
水分が乾いてから、空研ぎし、それにリグロインで薄めた生漆を吸わせておく。
画像の左は、取り出した粘土を石膏型に入れて、新しい粘土原型を作っているもの。

1月9日(土)

年末からズラズラという感じで雪が降り続いている。
積雪的には40センチ程度が最大で大したことはないが、気温が上がらない。
漆の乾きも悪い。木・金と二日続けて何もせず。

不眠傾向が強いのは相変わらずだが、かなり前から気にしないようにしている。
気にしても眠れるわけではないし、不眠と思っても昼間は平気に動いているのを体験的に知っている。
「一日一葉」とソ人先生の年賀状にあったが、この4年半ほどサボりまくっていた。
不眠状態で考え、起きるときに描いてしまえば一日が楽だと思い至った。
作品作りのことは考えず、徒然なるままにという感じで、、、
何回も一年生というようなことを繰り返してきた人生だから、気持は若いが、アラカンには違いない。

最初に思いついてした作図が、それを雄型にして素地を作ると、形が変わっていく。
素地の蓋と身の形がなかなか合わず、それに近い作図をCADでし直し、それを基準にしようと考えた。
講習のことはほとんど忘れたので、基本操作だけで定規になる作図をしようと午前中を費やした。
印刷してみると、A4が最大の印刷範囲のプリンターなので、実際の素地とは合わない。
等倍で素地を作っていなかったからだが、、、
比率を勘で変えて、何とか素地に近い作図を印刷する。
それに合わせて狂いを確かめるが、そんなに大きな狂いはなかった。
結局、今日も蓋と身を合わせて、合口付近に下地をつけ、暫くしてから切り離した。

午後から、初めて案内があった燕来堂へ行く。



グーグルマップでも表示されていたし、安居寺の反対側に曲がり、少しして看板があるとのことを聞いていた。
近くの郵便局のポストに、出していなかった年賀状と新年会欠席のはがきを投函。
入り口はせまい感じがしたが、中は考えられないくらいというほどの品が並んでいた。
面一ではない厚貝の品もあり、奈良のとは違うと、来客の方に話したり、、、
朝鮮のよりは、貝の切り方が細いところまできれいだったし、高岡のものかもと感じたりはした。
木地かプラスチックかということも、瘠せ込みで角の継ぎ具合とか、木目ので具合で判断するしかなかった。
古い美術書なんか、以前なら買おうと思っただろうが、月に6桁の収入さえ危ぶまれ、一人だけではない生活、、、
話は飛んで、全く知らなかったが、母が貸してくれた本。
読む気もなかったが、体調が悪かったのを心配してか、腹式呼吸のイメージの仕方が参考になるのではないかと別の本も貸してくれた。
天風という名を初めて知ったが、カンチェンジュンガで修行したらしい。
擬似体験ではなく、自分で積極的に向き合うしかないとその書の著者は書いていた。
最初に貸してくれた本(天風著)も、少しずつは読んでいる。
夏以降ずっと体調が悪かったが、健康診断の結果も含めて、精神的にも悪いように悪いようにとなっていったのだろう。
体調が悪いのはそのまま認めるとして、その先思い悩んでも何にもならないと書いてあるのは、その通りだと思う。
単に積極的に考えるようにするという読み方だけでは、自分勝手な善とか正義に陥ってしまう可能性が高い。
今はまだ、40年ほど前に、木枯らし紋次郎は、世の中に「(絶対的)正義」は存在しないと言っているのだと後輩にいった解釈を保持しよう。
アッシニハカカワリノナイコトデゴザンスというセリフの意味を。
腹式呼吸とかヨガとかを通して、精神の方向付けを実行しないことには人の生きる道は見えてこないのだろう。
腹式呼吸すらまともにしていない生活のままだが、、、

1月1日(金) こちらへ引っ越すことに

寅年となったこと(心機一転とか)とは関係ないが、こちらのHPに引っ越すことにした。
コーラルネットの容量の問題で、画像を出したくても限界があるし、文字のページにしても容量を使う。

年末の朱塗りは、寒さの所為か、加温湿を時々しているが、まだネチャリとする。
朱でも黒でも、艶が収まるまでは、強い加温湿をしては、発色が暗くなるか、焼けたりしてしまうので、駄目である。
一応乾いてから強い加温湿で、しっかりと乾かす。
生乾きのまま艶がなかなか落ちないときにどうするかが難しい点。
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